レポート マレーシア(コタバル)滞在記           黒田昭太郎

飛行機がクアラルンプール国際空港へ着陸する時、高度が下がるにつれ整然とした樹海が見えてきます。オイルパーム(油椰子)のプランテーションで、重要な輸出品目であるパームオイルを産出します。同空港からクアラルンプール市街に向かう途中も延々とこのオイルパームの林が続き、やがて前方に高い2本のタワーが見えてきます。クアラルンプールシティセンターにあるマレーシア近代化のシンボルの一つペトロナスツインタワーで、最近まで世界最高の高さを誇っていました。

マレーシアは東南アジアのほぼ中央、マレー半島の南半分とボルネオ島の北部(サバ、サラワク)から成りたっています。第二次世界大戦後、 1957 年のマラヤ連邦を経て、 1963 年に成立した若い国です。1980年代後半から、積極的に外資導入を行い、ルックイースト政策で日本、韓国を手本に工業化を進めて来ました。その結果、国民一人当たり所得は東南アジアではシンガポールに次いで第2位(タイの2倍、インドネシアの5倍)となっています。独立当初の錫、ゴムという一次産品の生産、輸出というモノカルチュアー経済から現在では電気、電子機器など製造業の発展と石油、天然ガスが国の経済を支えています。


ツインタワーとモスク
クアラルンプール)

マレーシア社会の特徴は複合民族社会であること。マレー人をはじめとする土着系、中国系、印度系と大別されます。(土着系が約2/3,中国系1/4,印度系1/12)イスラム教が国教であること。しかしそれぞれの民族は信仰の自由が憲法により保障され、マレー系はイスラム教、中国系は仏教、道教、儒教、キリスト教、インド系はヒンズー教と分れ、各民族は相互不干渉でそれぞれの文化を守り、政治的には安定した穏健な国柄といえます。

私はマレー半島東海岸のクランタン州の州都であるコタバルに派遣されました。首都のクアラルンプールから北北東に 450km 飛行機で50分、南シナ海に面し、タイ南部国境とは車で1時間という処にあります。コタバル市街地は行政、物流、交通の中心地で何時も大変な賑わいを見せていますが、車を少し走らせると、昔ながらの農村部落(カンポン)でゆったりとした田園風景が広がっています。クランタン州は農林漁業の一次産業が主で、個人所得は最低のレベルにあり、マレー人が95%を占めています。

この地域の米生産その他農林漁業の振興発展と農家所得の向上をはかるため、 1960 年代に設置されたのが農業省傘下のクムブ農業開発公社( KADA )で、私はその農業部野菜栽培促進プロジェクトに配属になりました。

ムルデカ(独立)広場と国旗(クアラルンプール) セントラルマーケット(コタバル)

このプロジェクトでは、雨期(10月~1月)の豪雨により野菜が畑地では栽培出来なくなること、無農薬有機栽培の要望が強いことなどから、雨よけ、虫除けのハウスを作り、その中で有機栽培を行うハウス栽培試験を実施し農家への普及を図ることを課題として与えられました。当初、こんなに暑い熱帯低地でハウス野菜栽培が出来るかと危ぶみましたが、カウンターパートと協力し雨除けのビニール屋根で側面虫除けネットのハウスを建て、培養土を工夫し、重力自然落下式の潅水装置を作り試験を開始しました。

ハウス外観 ローランドキャベツ

試行錯誤を繰り返しつつ、適する野菜種類、品種の選択と培養土の調製、潅水量の調節などを行い、日中38度にも達するハウス内でも無農薬、有機肥料のみで生育、収穫することが出来ました。収穫したキャベツやトマトを生食の習慣のないマレーの職員が喜んで食べてくれました。この方式の普及にあたっては、病害虫、雑草害、コストなど解決すべき問題が残りましたが、マレー人職員と一緒に汗まみれになって仕事をしたこと、州の科学博覧会で賞を頂いたことなど懐かしく思い出します。

職場は 1,400 人の大所帯でその内マレー人が99%以上を占め、全員真面目なモスレムです。(真面目すぎるくらい)勤務の中にもイスラム教の教え、習慣が色濃く入っています。朝礼では、コーランの一節を唱え、毎日午後1時の礼拝が行われ、ラマダン中は日中断食を完全励行し、断食明けのハリラヤプアサの式典を盛大に行います。職員は全員正装をして祝賀式典に参加します。ハリラヤプアサ(プアサ=断食)は日本の盆と正月が一緒に来たような感じで、遠く離れていた子弟が実家に集まり、先祖の墓掃除と盛大に祝賀のご馳走を食べます。また勤務先の上司は同僚、部下を家に招待します(オープンハウスといいます)。首都のクアラルンプールでは首相が一般市民の自由な訪問を受け付けるのが恒例となっています。

どっぷりと田舎のマレーイスラムの世界に浸った2年間でした。職場では JICA の研修、 NPO の研修で日本に行った経験者が多く、親日的でいろいろと親切にしてもらいました。食事など不自由なこともありましたが、私にとって貴重な異文化体験が出来たと考えて居ります。

職場の祝賀式典での正装 局長宅に招待されて

以上