「ポルポトの悪夢を越えクメールの再興に向けて」       北垣 勝之

1.地勢

カンボジアはインドシナ半島の南部に位置し、東にベトナム、北にラオス、西にタイと国境を接する。面積は日本のおよそ半分弱(18万k㎡)、人口は1480万人(2008年)である。ポルポト政権末期の人口と比べると5倍に膨らむ。

国土の中央に広大なトンレサップ湖があり、東側を縦断するメコン川の水量調節を行う。ここは淡水魚の宝庫でもある。また熱帯モンスーン気候に属し、高温多湿、年間の平均気温は27℃前後、乾季(11月~4月)と雨季(5月~10月)がある。9~10月の雨量が最も多くスコール的に降る。また、4月頃から気温が上がり30℃を超える日が続く。

2. 歴史

7~8世紀頃、現在のシェムリアップ周辺にクメール王国の原形ができる。王国は14世紀に最盛期を迎えインドシナ半島の過半に版図を広げる。その後タイやベトナムの攻勢に遇いクメール王国は衰退していく。19~20世紀にかけてフランスの植民地となり一時安定した時代を送るが、1953年シハヌーク王によって独立を勝ち取る。しかし爾後、社会主義へと傾斜するなかで内政の混乱、クーデター、ベトナム戦争の影響を受け内戦の勃発、そして1975年にポルポト政権が樹立する。世間を侵駭させた同胞の大量虐殺が行われ、国内は極度の荒廃に陥る。ポルポト後も内乱による混乱は続くが、1991年のパリ和平協定を経て新生カンボジアの復興が始まることになる。

幾多の紆余曲折はあったにしろ、近年は外国援助の効果が浸透したのか徐々にインフラ整備が進み、大型外資の投下も始まって経済成長テイクオフの兆しが見えるようになった。政情もフンセン首相のもと安定化に向かう。

3. 政経と社会情勢

ノロドム・シハモニ国王(2004年10月継承)を元首とする立憲君主制を敷く。但し、実勢は1998年総選挙以来フンセン政権が続く。社会経済の再建については、インフラ整備はもとより農業農村開発、地雷撤去、武装解除、保健医療及び教育の充実などの諸課題が、国連や諸国援助のもとハード・ソフトの両面から同時並行して行われた。開発のための基盤整備は着々と整えられ、近年の経済成長率は平均10%を超える勢いである。一人当たりGDPは、1998年の300ドルから2008年には750ドルに達し、2.5倍に膨らんだ。思えば2004年プノンペンに初めてエスカレータを備えたショッピングセンターが開店し、多くの国民は動く階段に乗るのをためらうほど驚いた。それから10年を待たずに32階建ての高層ビルも出現した。

カンボジアの主要産業は農業(米作)と観光業が大きく、次いで天然ゴム、木材、縫製がある。さらにリン・マンガンなどの鉱物資源も将来期待されよう。中でもクメール王朝時代のアンコールワット等の遺跡は観光の目玉として異彩を放つ。それ以前の遺跡も国内各地に手つかずのまま放置されており今後の開発が待たれる。

4. ボランティア活動

赴任先は首都プノンペンから北西300kmにあるバッタンバンの職業訓練センター(以下VTC)である。国立のVTCは2005年当時全国に38校あった。バッタンバンVTCは1991年からドイツ政府機関の資金援助を得て運営されてきたが2004年に撤退し、その後JICAがフォローを行うことになった。電気・電子・グラフィックデザイン・自動車・農業機械の専門シニアボランティア(以下SV)5人とともに学校運営に当たる。

設立から15年経過して老朽化した設備も多く、教材・教師陣のレベルも満足のいく状態ではなかった。さらに労働職業訓練省本部の予算は乏しく、SVは独自の努力を傾け職業訓練指導の改善に取り組んだ。全校6科、約300名の訓練生の円滑な就業に寄与するよう各科教師にアドバイスを施す。

5. おわりに

カンボジアは仏教を国教とする。従って全国津々浦々に寺院が散在し、かつて疲弊した人々の救済に当たったことも見逃すわけにはいかない。また都市を離れると青々とした田園が続き、ひょろひょろと伸びた砂糖椰子が林立する。黄金色に輝く寺院と田圃と椰子の樹、これがカンボジアの長閑な原風景である。貧しくても家族愛で結ばれた人々の活気に満ちた国である。

忌わしい内戦と虐殺の残滓は、2009年から始まった国際法廷のポルポト裁判で払拭されるであろう。カンボジアは日本と違って熟年者はすでに粛清されておらず、10代・20代の若者が人口の大半を占める。クメールの栄光を取り戻すべく未来に光明を抱く国家である。


朝礼の旗上げ儀式訓練所

人並みにアンコールワットのボランティア

人いっぱいトラックも立派なタクシー便

うらぶるや鉄路は民の裏通り

以上