我が内なるヨルダン                             大西 輝明

 米国平和部隊参加者の報告によれば、ボランティアとしての途上国での年月は、その後の自身の人生観が変わるほどに精神的な影響を受けた、濃密な時間であったなどとある。こうした「回心」とでも言える状況は、日本のシニアボランティアにとってもなお、ある程度の真実を含んでいるところのものであろう。わたしが2004年の秋ヨルダンへSV赴任したのは、それまでのしがらみから脱却してアウトサイダーになりたかったことによるが、この選択は間違いではなかったと今でも思っている。

 赴任地は首都アンマンから南へ200キロ、当時の「地球を歩く」では「古都」などと表現されていたマアーンなのだが、火山灰質の土からなる起伏地にセメントと日干し煉瓦からなる家々が連なり、一見、泥の町ではないかとの初印象を与える地であった。勤務地はそこからさらに車で15分、過去の王様の名を冠した国立大学なのだが、大学関係者はわたしを見て直ちに役立たずの非実用的な人間であることを見抜き、「おまえは適当に研究などをやっておれ」などと、念願のアウトサイダー化を許容してくれたのだ。むろん、それはヨルダンの大学として求められる研究上のニーズを勘案しての上という制限付きなのだが。大学は2キロ四方、四百万平方メートルの敷地を持つのだが、それはすべて砂漠地で、中央に大学の施設、その周辺にオリーブの苗をうえて四六時中、灌水を施していた。大学の授業はアラビア語と英語の混淆で、教師ははじめは英語で説明するのだが、熱がはいってくればアラビア語に変ずるといった状態、しかし学生は居眠りもせずにノートをとり(ここがわが国とは異なるところか)、期末試験では暗記に精を出すといったところはどこの国でも同じだ。

 わたしの赴任当時、マアーンの町でアラブ人以外を見かけることはまず、なかった。だから初めてマアーンの町を歩いた時には、わたしも緊張した。衆人に注目され話しかけられるのだが理解できず、野菜売りからは腐ったトマトを投げつけられ、子供たちにはぞろぞろ後を追って付け回され、イヌネコのように棒きれでつつかれて反応を強要されたりした。二度目には石を投げられたりしたのだが、「マアーンは保守的な土地だから」というのがJICAの冷静で、つれない評価だった。わたしは、わたしに石や腐ったトマトを投げつける人々のために働く、まるで聖職者のような気分にもなったものだ。三度目以降からは人々はわたしに慣れ、わたしも彼らに慣れた。慣れるということが彼らの社会に同化し、彼らのメンバーの一員であると認められることを言うならば、わたしの場合にはとてもそうした状態の「慣れた」ではなかった。しかし彼らは親密で、会えば「あなたの上に平安を」と呼びかけ、必ず握手であいさつしあった。いまとなれば不快なことよりも、彼らの好意や善意、親切、親密な気分だけが強く残る。

  ヨルダンでは冬に降雪を見るのだが、春には新緑の草原に原色の花々や白い桜のようなアーモンドが、夏や秋にはブーゲンビリアが咲く。しかし国は貧しく、わたしの赴任中に一人あたりのGDPが3000ドルになったと新聞は自慢した。孤独だったが2年のあいだ辛抱できたのは、わたしの周辺が気さくで親切、礼儀正しく、気分的に穏やかなヨルダン人で満ちていたことにも大いによる。わたしへのそうした対応が、わたしがいつかは本国へ帰る「外国人」である故であったのならば、そのことに関しては感謝する以外にないのだが、必ずしもそうだとも思えない。そうした個人的な、利他的な人格が、この国のイスラムと深いところで結びついているのではないかと思うようになったのは帰国してからのことだ。国ごとに異なるイスラムの教育が国民性を醸し、その国の品格の重要な部分を形成するとするのは本当だ。この点に関して、わたしはヨルダンのイスラムを見直す。ヨルダンの人々を通して多様な価値を受容する事や忍耐と寛容を学んだのだが、そうした精神が帰国後しだいに消失してしまったのも悲しいところだ。

 わたしは2年間で求められた環境分野での「研究」を行い、2件の論文をヨルダンの雑誌に発表し、1件を大学のウェブサイトに、他の2件を別のサイトに掲載した。これらのうち2件は地球温暖化に対するヨルダンへの影響評価で、掲載されたのはわたしの帰国後だったのだが時期的に多くの反響があり、専門領域の異なるカウンタパートは「質問などへの対応におおいにこまったぜ」などと手紙をよこしてきた。世界の大部分はヨルダンのような、またはそれ以下の貧しい国々だ。海外ボランティアとは彼らの側に立って、彼らのために働くとするのが基本だ。わたしの研究がいくつかの成果を得たとしても、それが彼らの生活のためにどのように役に立つのか、立ったのか。わたしは2年間、ヨルダンで本当にヨルダンの人々のために過ごしてきたのか。時間がたつとともに、わたしの中で忸怩たる思いは深まる。

 


これがヨルダンの大学


これがヨルダンの大学生

授業風景

卒論発表もある

汚水のあふれるマアーンの町

住んだのは大学から25キロ離れたワディムサの町

ヨルダンのご馳走マクルーベ

素手でワシワシ食べる


ヨルダン女性で撮ってよいのは幼女と老婆だけ

以上